現実とは

僕たちは瞬時に何兆個もある現実の中から、自分に都合のいい現実だけを見てるんだよね。

僕たちは、無限の数の情報をあびつづけている。
認識しているのは、ほんの一部。
 
今、壁の色はどんな色か、
外の音はどんな音か、
口の中の味覚は?
隣の人は、何をしているか、
 
そういうのは現実としてありながら、
ほとんどの現実は無視して過ごしている。
 
一方で、好き勝手に、しかも深層のところで、選んでいる。
 
起こった現実は、自分が選んでいる。しかも都合よく。
都合がいいってのは、好き嫌いとか、表層的なしたいしたくないってことじゃなくて、
都合悪いことも、大満足のことも、
深層の自分がそうであってほしいという現実を都合よく見ている。
 
もう一つ、現実とは、自分が起こしている。
たとえば、関係性の上で、相手に起こっていることは、自分のパターンが反映して起こっている。
 
このことを、合わせて考えると、
現実って、自分が引き起こしている世界。
 
 
逆に、自分がどんなところにいるのかを見るときにも、現実は「使える」。
この二つのことからわかることは、今自分に入ってきている現実の情報っていうのは自分が見たいもので、
もう一つは自分が起こしている状況なので、
 
じゃあ、その現実をいくつか集めてくると、
自分が今起こしたいことだったり、あるいはいつも起こしているパターンが見えてくる。
 
起こっている現実をいくつかより集めたら、勝手に今自分がどこにいて、
何がしたいのか、見えてくる。
 
現実って、親切なもので、自分が気づかなかったら、なんども教えてくれる。
何度も同じことがやってきたら、それは現実が教えてくれているのかも。
 
 
 
現実を「使う」こととは、
 
たとえば、僕の場合。
ワークショップの意図合わせで、当日のキャンセルがいくつか入り、
備品も忘れていたものがあったり、抜けるという現象が起こっていた。
ということは、今回の意図は「抜ける」にしたらいいんじゃないかなと思い、
実際その意図を使ってやってみることに。
 
終わってみて、そのことが必要な場だったなと思うことが多くあった。
「抜ける」ということの意味って、何か詰まっているということがあらわている。
詰めすぎていますという現実が見えたんだと思う。
当日の進行も余分な要素を引き抜いて、必要なことを再度入れて、
抜くことで、スペースができたり、
実際参加者が少なくなって、より濃密な時間になったりね。
 
普通は、何かが起こると解決しようとするよね。
そうすると、どうなるかというと、
今回の例でいうと埋めようとして、また満杯なところに埋めようとするので、
さらに抜けるというインパクトが起こる。
 
ただそのことに責任を取るということではなくて、
その現実はなぜ起こって、何を知らせてくれているのかに好奇心を向けて、
自分がしたいことや避けたいこと、
自分の存在意義、人生の目的なんかと繋がっていることは何かを見るのが大事じゃないのかな~。
 
僕は今それを“見立て”るって呼んでいて。
しかも現実は親切なので、気付かなければ何回も教えてくれるっていうサービス付き♪